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【感想】『ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち』

読了:おおたとしまさ『ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち』ディスカヴァー携書、2019年。

(私はヨドバシカメラ電子書籍リーダー「Doly」で読みました。リーダーの仕様上、ページ数が表示されないので引用はページ数が書けないことをご了承ください。)


こちらで紹介されていて、気になったので読んでみました。


毒親」という言葉はだいぶ前から耳にしていたけど、「教育虐待」という言葉は恥ずかしながら初めて知った言葉でした。


タイトルだけでもインパクトがありますが、おそらく去年までの私であれば手に取ることはなかったでしょう。
しかし、今年「親」になり日々子供と接していく中で、将来的に学校がー進路がー習い事がーってなったときに、親として子供とどう向き合っていくかを思案している状況でしたので(気が早いですが)、手に取ってみました。


本書では「教育虐待」を以下のように定義しています。

「教育虐待」とは、「あなたのため」という大義名分のもとに親が子に行ういきすぎた「しつけ」や「教育」のことである。


第1章〜第3章では、著者が「教育虐待」の被害者から聞き取った体験談が綴られているのですが、これらが何とも言葉では言い表しにくい……。


虐待で殺されてしまった子供は事件としてニュースに取り上げられ、いかに残忍なことであったかということが報道されていますが、本書にあるような事例はなかなか浮き彫りにならない部分なんだろうと思います。
とりわけ家庭内で起こっている問題なので、第三者から見えにくいものなのだろう。


大抵の子供は家庭と学校という狭い世界で生きていて、殊更一番近い存在の「親」の意見は良くも悪くも絶対という状況で、その中で「あなたのため」なんて大義名分を持ち出されてしまったら、子供としては逃げ道がなくなってしまいます。

子供の中ではそれが理不尽だと思いつつも、「自分のためなんだ……」と思わざるを得なくなるのではないでしょうか。

そのジレンマをうまく交わせる柔軟性を子供が身に着けていれは別ですが、まぁ、そんなことは稀です。
そうした葛藤の中にいると次第にバランスが崩れてしまい、本書の事例のような道を歩むことになってしまうのだと思います。


ただ、「教育虐待」をしてしまう親も自らが「毒親」だという意識はなく、「あなたのため」という大義名分に囚われてしまっていることもあれば、親自身も「教育虐待」の被害者だった可能性もあるようです。


学校内の「教育」であれば、学年が上がれば担任も変わるのでいくつかのパターンを見ることができますが、家庭内の「教育」って何パターンも受けられるわけではありません。

そこで「教育虐待」が行われていれば、いざ自分が親になり自分の子供を教育するとなると、自分が受けてきた家庭内での教育しか参考になるものがないので、自然と自分が受けてきた教育をしてしまうのでしょう。もちろん全員がそうではないですが。


第4章では「カリヨン子どもセンター」を創設した坪井節子弁護士が教育虐待に陥らないための自分自身への4つの問いを挙げています。

(1)子どもは自分とは別の人間だと思えていますか?
(2)子どもの人生は子どもが選択するものだと認められていますか?
(3)子どもの人生を自分の人生と重ね合わせていないですか?
(4)子どものこと以外の自分の人生をもっていますか?

これは常に頭に置いておきたい問いです。

(参考:カリヨン子どもセンター)



また、著者は現代の社会が子育ての大部分を親に課しすぎているのではないかと疑問を呈しています。

 そもそも現代社会は、「親」という概念を過大評価しているのではないか。
 子育てとは、未来の社会のメンバーを育てること。つまり未来をつくる社会的営みであり、本来そのコストは社会全体で担うべきものである。ゆえに、「親」が子どもを私物化することも許されず、一定期間その子をお預かりしたら世の中にお戻ししなければならないという逆説も成り立つ。

よく「地域で子供を育てましょう」みたいな言葉は聞くけど、実際のところどうなんでしょうね。

この辺の事情はあまり知らないのですが、親と子のみの核家族が多い現代では確かに子育ての大部分を担うのは親になってしまいますよね。

昔は大家族が多かったなんてことを聞きます。私は生まれたときから親としか住んでいなかったので、祖父母と同居しているという感覚は分からないのですが、大家族であればおそらく祖父母も子育てに関わり、負担が分散していたのかもしれません。

仮に親の教育が行き過ぎそう(いわゆる「教育虐待」になりそう)になったら、祖父母が緩衝材として間に入りバランスを保っていたのかなーなんて想像の域を出ませんが、そんなことも思いました。


さらには、「教育虐待」という子供の人権侵害から子供を守らなくてはいけないが、その一方で大人の人権も守られていなければならないとも著者は述べています。

 教育虐待に限ったことではない。社会全体の人権意識が低ければ、虐待・差別・不平等が増えるのは当然だ。いじめ、非行、自殺、うつ病の増加、出生率の低下などは、人権意識に対する社会的な未成熟が招くさまざまな社会的歪みの表れとも考えられる。だとすれば逆に、社会として人権意識を高め、あらゆる虐待・差別・不平等を減らしていけば、それに準じて教育虐待も減るはずだ。
 そのためには、子どもの人権だけでなく、大人の人権も守られなければいけない。すなわち大人も、(1)「生まれてきて良かったね」と言ってもらえて、(2)「ひとりぼっちじゃないからね」と言ってもらえて、(3)「あなたの人生はあなたしか歩めない」と認めてもらえていなければならない。

当然ですが、大人になったからといって人権が蔑ろにされていい訳はありません。
どんな人生を歩んでいようと認められる社会であることが必要なんだと思います。


私の中で消化しきれていない部分もあってうまく文章化できませんでしたが、まずは今の時期に読むことができてよかったです。


今回はこんな感じです。