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日常生活の雑感を書き出しています。備忘録的役割。

【感想】『天国はまだ遠く』

読了:瀬尾まいこ『天国はまだ遠く』新潮文庫、2006年。


 電子書籍で購入し、久々に読み返しました。紙のものも持ってはいるのですが、現状本を読める時間が会社の始業前と昼休み中くらいなのでいちいち紙を持ち歩くのは面倒なんですよね。


 さて、本書は私が瀬尾まいこ氏にハマるきっかけとなった作品です。当時は瀬尾氏のことは知らずにただ単にタイトルが気になって手に取ってみたのですが、文体と言うのでしょうかね、「文章の雰囲気」が妙に自分の波長とカチッと合わさって、瀬尾氏の他の作品も読んでみたい!って気持ちになったことを覚えています。
 でもこれを言葉にするのって難しくて上手く表現できないんですけど、瀬尾氏は国語の先生でもあったので、瀬尾氏の言葉選びと私の中の美的感覚が一致したんだと思います。瀬尾氏の文章は本当に綺麗で、とにかく綺麗で、いくらでも読んでいられる気がします。


 主人公の吉田千鶴(以下、千鶴)は仕事や人間関係に悩み、精神的にも追い詰められてしまい、自殺を決意します。そこで「鳥取や京都のうんと奥」を目指していくのですが、木屋谷という集落の民宿に辿り着き、睡眠薬で自殺を図ります。しかし、丸1日寝続けただけで失敗に終わってしまいます。その後は木屋谷の自然や人々に触れて生きる活力を戻していきますが、同時に自分の居場所がここにはないと思い、都会へと戻っていく……と、ざっくりとこんな感じの物語です。


 久々に本書を読んでみて、「あぁ、こんな内容だったなー」と懐かしみながらも、千鶴が最終的には都会へ帰っていくという行動に共感というか、多分自分でもそうするだろうなぁ…と思いました。
 本書を初めて読んだのは大学生の頃で、むしろ今よりも千鶴の年齢(23歳くらい)に近かったんですけど、ここまでは思わなかったんですよね。「へぇー、戻っちゃうんだ」くらいだった気がします、いかんせん昔のことなのではっきりとは覚えていませんが。


 千鶴は自殺に失敗して目覚めた日から散歩に出かけたり、田村(「民宿たむら」の管理人)の仕事についていったりと徐々に木屋谷の生活、風景に馴染んでいきます。しかし、ある日、こんなことを思います。

 夜はいつもより深い眠りが待っていた。運動量が、その日の夕飯と眠りの量を決める。簡単で明快な生活だ。身体に従って行動すればいい。考える隙間がないし、何かに心を費やすこともない。生活すること以外にすることはない。悩まなくて済むのだから、いいことかもしれない。これが、本来の生活なのかもしれない。
 だけど、私はなんとなくそんな日々に違和感を持ちはじめていた。完全に身体に仕切られてしまう日々に戸惑っていた。このままこんな生活に埋まりきってしまうのは、なんだか怖い気もした。
 それに、自然が冬にむけて深まれば深まるほど、私は自分がこの場所から浮いているように感じた。いつまでこの地は私を受けいれてくれるのだろうか。


 そして、田村と一緒に参加した集落の飲み会での帰り道ではその思いがさらにつよくなります。

 歌っていると気持ちがいい。誰もいない山の中で、大声で歌うのはたまらない解放感だった。
 なのに、私はだんだん寂しくなってきた。歌えば歌うほど、寂しくなった。声がどんどん深い夜に吸い込まれていく。それと一緒にみるみる寂しくなってしまった。
 ここにはたくさんの星、たくさんの木、山に海に風がある。それに、隣には田村さんもいる。今、私はたくさんのすてきなものに囲まれている。
 でも、寂しかった。すてきなものがいくらたくさんあっても、ここには自分の居場所がない。するべきことがここにはない。だから悲しかった。きっと私は自分のいるべき場所からうんと離れてしまったのだ。そう思うと、突然心細くなった。まだ、そんなことに気づかずにいたい。本当のことはわからずにいたい。だけど、私の元にも時が来ようとしていた。
 酔いから抜けてしまわないように、私は必死で大きい声を張り上げて、吉幾三を歌った。だけど、そんなのはささやかな抵抗だ。酔いはいつか醒めてしまう。


 千鶴にとっては自殺する覚悟はあったけれど、一生暮らしていく覚悟で木屋谷に来たわけではありません。最初の頃はいわば無気力状態で流されるままになっていたけれど、この木屋谷での生活を通して自分がここでできることは何もないと感じてしまったのは、「お客さん」という立場に近かったからだろうと思います。

 最後には都会へ戻る決心をします。

 私はこの地が好きだ。朝露に湿った道を歩くのも、夕焼けにそまる枯れ枝を見上げるのも大好きだ。葉の匂い、風の音、きれいな水、きれいな空気。どれも捨てがたい。おいしい食事に、心地よい眠り。この生活にも身体が順応している。古い民宿だって、鶏たちだって気に入ってる。だけど、ここには私のするべきことはどこにもない。自然は私を受けいれてくれるし、たくさんのものを与えてくれる。でも、私はここで何をすればいいのかちっともわからない。
 都会に戻ったからって、するべきことがあるわけじゃない。やりたいこともない。存在の意義なんて結局どこへ行ったって、わからないかもしれない。けれど、それに近付こうとしないといけない気はする。ここで暮らすのは、たぶん違う。ここには私の日常はない。ここにいてはだめなのだ。


(中略)


 ここから抜け出すのにはパワーがいる。だけど、気づいたのなら行かなくてはいけない。今行かないと、また決心が緩む。そして、私はやるべきことがないのを知りながら、ここでただ生きるだけに時間を使うことになってしまう。それは心地よいけど、だめだ。温かい所にいてはだめだ。私はまだ若い。この地で悟るのはまだ早い。私は私の日常をちゃんと作っていかなくちゃいけない。まだ、何かをしなくちゃいけない。もう休むのはおしまいだ。


 引用が長くなってしまいましたが、こうして千鶴自身の中だけで決心できたということに意味があるんだと思います。もちろんその決断に至るには、田村や集落の人々などの影響があったけれども、決して誰かに「帰りなさい」と言われて渋々決めたことではありません。その分、この決心はなかなか揺るがないものだろうと思います。

 周囲の人に勧められて決めることが悪いことではありませんが、自分の人生に直結しているような決断なんかはやっぱり自分自身で下す方がいいと思っていて、周囲の人たちはその決断を下せるような環境づくりや受け入れてあげる寛容さなんかを提供することの方が大切なんだろうなー、なんて思いました。

 都会に戻った千鶴は、「するべきこと」をちゃんと見つけられたのだろうか。


 今回はこんな感じです。