kmpen148のいろいろ

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【感想】『くちぶえ番長』

読了:重松清くちぶえ番長』新潮文庫、2007年。

www.shinchosha.co.jp


 久々に重松清氏の作品を読みました。大学の頃、知人とお互いにこんな本読んでるよーって話をしていた中でおすすめされた『きみの友だち』新潮文庫)が最初でした。

 大学の頃は教育学を学んでいたこともあって友情や学校のことをテーマにしているということに惹かれ、そして文章が自分好みだったこともあり、それ以降も重松氏の作品を読むようになりました。


 ちなみに直接本作の感想とは関係ないのですが、私は小説を選ぶときは作者名よりもタイトル(とカバー裏にあるあらすじ)に惹かれるかどうかが基準になっているんですよね。その方が気分に合わせて作品を選べそうな気がしていて。
 まぁ、タイトルに惹かれても「あぁ、この作者のはいいや…」って避けてしまうこともあるんですけどね。

 それでも何人かは作者名優先で選んでいます。このブログでも何度か感想を書いている瀬尾まいこ氏がその筆頭でして、現状私の中では一番の作者様で、瀬尾氏が描き出す作品の世界観はもとより、文章がとにかく好きです。
 他にも何人かいるのですが、重松氏もその中の1人で、作品のテーマ、そしてやっぱり文章の、何て言うんでしょうか、「波長」ですかね?それが私のものと合致している気がします。

 瀬尾氏の文章もそうなんですけど、頭の中にスーと入ってきてストンとハマる感じ。感覚的なものなので言葉で説明するのはなかなか難しく、本来ならより明確に言語化できるように分析したいのですが、いずれにしてもこういうのはきっとそれぞれにある感覚だと思っています。だから、瀬尾氏や重松氏の文章が合わない人もいれば、逆に誰かが好きな作者様の文章が私には合わないってこともあるものです。


 さて、感想とはだいぶかけ離れてしまいましたが、本作に話を戻します。

小学四年生のツヨシのクラスに、一輪車とくちぶえの上手な女の子、マコトがやってきた。転校早々「わたし、この学校の番長になる!」と宣言したマコトに、みんなはびっくり。でも、小さい頃にお父さんを亡くしたマコトは、誰よりも強く、優しく、友だち思いで、頼りになるやつだったんだ――。サイコーの相棒になったマコトとツヨシが駆けぬけた一年間の、決して忘れられない友情物語。

(冒頭URL先のあらすじを引用)


 物語は、大人になった「ツヨシ」が小学4年生の時に書いた「ひみつノート」を見付けて、その内容を回想録として本にした…という設定から始まります。

 おじさんになったぼくは、子どもの頃の夢をかなえて、いまは作家だ。ウソみたいだけど、ほんとうの話だ。
 だから、マコトをさがす貼り紙は、一冊の本になる。きみがいま手にとってくれた、この本のことだよ。
『ひみつノート』に書いていたお話を、ちゃんと言葉の意味が通るように、ちょっとだけ手直しした。たくさん直してしまうと、あの頃のマコトやぼくが、どこかに消えてしまいそうな気がする。
 読んでみてくれないか。
 そして、マコトをさがすのをいっしょに手伝ってくれないか。


 物語の語り手はツヨシですが、マコトもこの物語の中心人物の1人であり、この2人は対照的に描かれています。

 何か間違ったことが起こった時に心の中ではそれは間違いで正したいという気持ちはありつつも周りに流されて何もできないツヨシと、間違っていることは間違っているとハッキリと言い、そしてそれを正そうと行動するマコト。

 転校初日に「番長になる」と宣言していたマコトらしい行動ではあるんですけど、なんか私の中でのイメージは番長というよりも「正義のヒーロー」という感じですかね。
 時代設定的には「ひみつノート」を見付けたツヨシの時代が現代のはずなので、ツヨシの小学4年生の頃は昭和中期以降でしょうか。この頃の「番長」はそういうイメージだったのかな。

 いずれにしてもこういう「正義のヒーロー」的存在とそれに相対する勢力的な構図は現代でも十分に起こり得る話ではあるので、決して時代錯誤な内容ではありません。この辺はご一読いただければと思います。


 マコトのお父さんは亡くなっていますが、実はツヨシのお父さんと友達だったということもあり、お盆にマコトの家に集まり過ごしていた話があります。


 日が暮れるまで、パパはヒロカズさんの思い出話をとぎれることなく話しつづけた。どんどん出てくる。いつまでたっても終わらない。ヒロカズさんと仲良しコンビを組んでいた小学校時代を、まるごと再現しているみたいだ。
「よく覚えてるわよねえ」「ほんとほんと」と、マコトのお母さんとママは感心した顔でうなずき合っていた。
「やっぱり研究者だから、記憶力がいいのねえ」──おばさん、ちょっとほめすぎかも、それ。
「精神年齢が子どもっぽいだけよ、そんなの」──ママのほうが正しい。
 でも、それにしてもよく覚えてる。
 よっぽど仲が良かったんだな、パパとヒロカズさん。
 ジャンボやタッチの顔を思い浮かべた。あいつらのこと、ぼくはオトナになっても、あんなにたくさん話せるだろうか……。


 幸いなことに、私が学生時代から連絡を取り合っていたり、定期的に飲んだりしている友人はみんな元気に過ごしているので、こういう経験がありません。
 でも、ツヨシが感じたこの思いを読んだ時、私もふと彼らの顔を思い浮かべてしまいました。逆に、もしも私が彼らより先に逝ってしまった時、彼らは私のことをこうやって思い浮かべてくれるのだろうか……と。


「わたしやお母さんだと、オトナになってからのお父さんしか知らないんだもん。おばあちゃんは、子どもの頃のお父さんの話を聞きたがってたの。だから今日、おじさんに来てもらうことにしたの」
 あ、そうか──やっとわかった。
 マコトの言うとおり、パパが今日話していた思い出は、ぜんぶ、ヒロカズさんの子ども時代のものだった。おばあちゃんにとって、なによりも懐かしい思い出だった。


 ここ。今まで意識したことなかったけど、確かにそうなんですよね。

 お正月とかに親戚同士で集まった時に親たちが盛り上がっているのって、彼らの子供の頃の話やまだ私が生まれる前の若い頃の話だったような気がします。私はそれを聞かされても「ふーん」くらいにしか思えなかったのですが、まぁ、なんかこういうことなんでしょうね。
 大人になるとそれぞれが離れて生活してしまい、「共通の思い出」って作りにくいですもんね。

 そう考えると、奥様にとってはここ数年前の私からの記憶しかないし、子供にとってはむしろ数年後の私からの記憶しか残らないことになります。子供の頃の、いわゆる「思い出」は私自身が語り継ぐか、一緒に過ごしていた友人たちの記憶の中にしか残っていません。
 もし万が一私が早々にぽっくり逝ってしまったら、子供の頃の私の「思い出」はどれだけ語り継がれていくのだろうか……。


 別に悲観的に考えたわけではなく、この場面を読んでいてふと思い浮かんだので感想として文章化しただけで、これといって深い意味はありません。


 今回はこんな感じです。

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