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【感想】『遅いインターネット』

読了:宇野常寛『遅いインターネット』幻冬舎、2020年。

www.gentosha.co.jp



 結構色々なブログなどで取り上げられていて前々から気になっていました。
 久々に内容が重めな、ずっしりとした本を読んだ気がします。読み応えのある、非常に知的好奇心を沸き立たせるような良い書籍でした。ただ、私自身の知識不足もあり一度読んだだけでは到底理解しきれる内容でもなかったので、今後要所要所を読み返しながら理解を深めていきたいところですね。
 大学の頃によく授業の課題書籍や論文を読んでレジュメを作成していたように、各章の要点だけでも抜き出してまとめてみる必要があるかもしれません。


 著者は一貫してこの時代にこそ「遅いインターネット」の必要性を唱えていますが、序章でインターネットの現状をこう捉えています。

 そう、気づいたときは既に手遅れだった。それも、決定的に。
 いまこの国のインターネットは、ワイドショー/Twitterのタイムラインの潮目で善悪を判断する無党派層(愚民)と、20世紀的なイデオロギーに回帰し、ときにヘイトスピーチフェイクニュースを拡散することで精神安定を図る左右の党派層(カルト)に二分されている。
 まず前者はインターネットを、まるでワイドショーのコメンテーターのように週に一度、目立ちすぎた人間や失敗した人間をあげつらい、集団で石を投げつけることで自分たちはまともな、マジョリティの側であると安心するための道具に使っている。
 対して後者は答えの見えない世界の複雑性から目を背け、世界を善悪で二分することで単純化し、不安から逃れようとしている。彼ら彼女らはときにヘイトスピーチフェイクニュースを拡散することを正義と信じて疑わず、そのことでその安定した世界観を強化している。
 そして今日のTwitterを中心に活動するインターネット言論人たちがこれらの卑しい読者たちを牽引している。
 彼らは週に一度週刊誌やテレビワイドショーが生贄を定めるたびに、どれだけその生贄に対し器用に石を投げつけることができるかを競う大喜利的なゲームに参加する。そしてタイムラインの潮目を読んで、もっとも歓心を買った人間が高い点数を獲得する。これはかつて「動員の革命」を唱えた彼らがもっとも敵視していたテレビワイドショー文化の劣化コピー以外の何ものでもない。口ではテレビのメジャー文化を旧態依然としたマスメディアによる全体主義と罵りながらも、その実インターネットをテレビワイドショーのようにしか使えない彼らに、僕は軽蔑以上のものを感じない。
 あるいは彼らは、人々はもはや考えないためにこそインターネットを用いることを前提に読者が欲しがっている言葉を、最初から結論が分かっている議論をまるでサプリメントのように配信する。そしてサプリメントを受け取った読者はいまの自分は間違っていないのだと安心する。自分は 善の側に立っていることを確認し、反対側の悪を非難すれば自分は救われると信じることができる。


 ……もう、なんというか、「その通りだよなぁ……」という言葉しか出てきませんでした。

 石を投げつけられた最近の例では、芸人の渡部建氏でしょうかね。いやね、彼の行動に対して「許せない!」とか感情を持つことは当然だと思うし、別にそれは全然問題ないと思います。ただ、だからといって、公表されている事実以上に勝手な推測を立てて、さもそれも事実であるかのように捉えて人格否定に近い罵声を浴びせていいのかというと、それは別問題でしょう。
 でもこうしたことは大なり小なりそこかしこで起こっていて、石を投げる標的も短期間で変わっていきます。


 ワイドショーも何か問題を起こした人を連日のように取り上げて、コメンテーターっぽい人たちが次から次へと色んな推測を混ぜて苦言を呈しています。


news.yahoo.co.jp


 前半部分は正直どうでもいいんですが、後半の「何が問題か」に書かれていることがまさに著者が問題視していることに通ずる部分かと思います。

 素人のタレントが面白半分に,「セックス依存症」などと揶揄するのは困ったものですが,「専門家」を名乗り大学の教授もしている人が,このようなありもしないセンセーショナルな病名を用いて,「射精すれば用はない」「もろもろの侮辱的行為をする」「このあとも浮気を繰り返す」などと決めつけるのはさらにタチが悪いと言えます。しかも,その内容はまったく専門的でも科学的でもないデタラメで,憶測による単なる人格攻撃にすぎません。


 もはや「専門家」という肩書きで出演している人ですら平然と石を投げつけているのがワイドショーの現状です。
 それらを見てインターネット、SNS上では「お前が言うな」とか「切り取り報道やめろ」とか、「だからテレビは……」的な論調でテレビ否定がされているわけですけど、結局やっていることはワイドショーと一緒なんですよね。むしろ、放送されない分、過激な発言も多くなるのでワイドショーよりも悪質な場合もありますし。


 著者はこのような現状になってしまった過程を様々な視点から論じ、分析しています。
 その中で、吉本隆明氏の「共同幻想」という概念を用いている章があります。

共同幻想論』で吉本隆明は人間がその世界を認識するために、三つの幻想が機能すると主張した。それが自己幻想、対幻想、そして共同幻想だ。自己幻想とは文字通り自分自身に対する像、つまり自己像のことだ。対幻想とは1対1の関係について、その二者があなたと私はこのような関係なのだと信じる幻想だ。共同幻想とは集団が共有する目に見えない存在のことだ。そして、この当時の吉本が提示した三幻想の区分は今日の情報社会を考えるにあたって、極めて有効な視座を与えてくれる。なぜならば、この三幻想は今日の情報社会──とりわけインターネット上のコミュニティを形成するソーシャルネットワーキングサービス──の基本構成と合致しているからだ。
 そう、自己幻想とはプロフィールのことであり、対幻想とはメッセンジャーのことであり、そして共同幻想とはタイムラインのことに他ならない。


 興味深い繋がりだったのですが、如何せん私自身、吉本隆明氏の思想は全く知らなかったので読んでいても「まぁ、なんとなく分かるかなぁ……」程度の理解になってしまいました。この辺りはもう少し深く読み直したいところですね。


 余談ですが、「共同幻想」という言葉を見て、ふと「想像の共同体」を思い出しました(本書の参考文献には入っていなかったので射程外だと思いますが…)。



 「想像の共同体」はベネディクト・アンダーソン氏が提唱した概念で、ナショナリズムや国民というものがどのように構築されていくか的な理論です。
 大学院時代の研究を進めるにあたって割と根幹を支える書籍でもあったんですけど、もうね、きれいサッパリ忘れていますね。できればこちらもじっくりと腰を据えて読み返したいところで、何か共通点なり比較できそうな部分はありそうな気はします。


 さて、本書のタイトルでもある「遅いインターネット」という概念には大いに賛成ではあります。仮にも大学・大学院時代に「メディア・リテラシー」を研究していた身としては、重要な概念だと思っています。
 「遅いインターネット」の要点としては、

  • 世界に対する距離感と進入角度の見極め
  • 「他人の物語」を「自分の物語」に
  • 「読む」と「書く」の往復運動

といったところでしょうか。どれも抽象的なので具体的な部分はぜひご一読いただければと思いますが、これらがより多くの人に受け入れられるといいなー、と。


 ただ、対抗勢力同士で石を投げ合っている現状でこの活動を広げるのも難しいよなぁ、とは感じました。
 下手すると、この活動も石の投げ合いに発展しかねない危険性もあって、現状のインターネット、とりわけTwitterに対して批判的な視点しかないと逆にTwitter側からも「遅いインターネット」へは批判的な視点しか生まれません。お互いが歩み寄らないと結局小さな範囲での活動になってしまい、外見上はいんふるえんさーに導かれているなんちゃって政治思想クラスタと同じような存在に見られてしまう可能性も孕んでいます。


 著者は本書を書く際に、

この本は肯定する本にしようと考えた。「……ではない」ではなく「……である」と語る本にしようと思った。


と考えていたそうです。
 インターネット(Twitter)の現状を問題視することは当然大切だけれども、それを否定するだけではなく、受け入れ、歩み寄りながら活路を見出していくということが大切なのかなと思います。ま、一読者の勝手な戯言ですけどね。

 今後も折に触れて本書を読み返し、自らの思考をアップデートできればいいなーと思います。


 今回はこんな感じです。

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