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【感想】『服従の心理』

読了:スタンレー・ミルグラム山形浩生訳『服従の心理』河出文庫、2012年。
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 一時期読む本がなくて探していたところ、『群衆心理』(ギュスターヴ・ル・ボン)の関連書籍としてやたらとオススメされていたので買ってみただけなんですけれど、なかなか刺激的な本でした。ただ、毎日ちょっとずつしか読み進めていなかったので時間がかかってしまいました。


 ある有名な実験から「権威」と「服従」の関係性を分析するという内容なんですが、この実験、「アイヒマン実験」なんて呼ばれることもあり、ご存知の方も多いと思います。この実験は「実験者」「被験者」「被害者」の3つの立場から成り立ちます。

 ちなみに本書を読むにあたってちょっとややこしいのが、「被験者」は「先生」役、「被害者」は「学習者」役となるため、表記が混在している点です。「被害者」と表記された数行後には「学習者」と表記されることもあり、読むのに慣れが必要かもしれません。本記事では、「実験者」「被験者」「学習者」(「被害者」だと「被験者」と表記が紛らわしい)で統一します。


 実験の簡単な手順ですが、「被験者」は「実験者」から「罰が学習者に与える影響を調べるもの」と本来とは異なる目的で説明され、「学習者」に対して問題を出します。そして、「学習者」が間違えると「被験者」は電撃のスイッチ(罰)を入れ、間違える度に電撃の威力を上げていくというものです。ある一定の威力までいくと「学習者」は苦痛を訴え始め、さらに威力が上がっていくと叫び、終いには反応すらしなくなるため、「被験者」は途中で実験の中止を「実験者」へ訴えます。しかし、「実験者」は実験を続けるように指示をします。
 つまりは、この状況の中で「被験者」が「実験者」(権威)の指示にどの程度従う(服従)のかを見る……というのが、この実験の本当の目的です。ですので、「学習者」は実際には電撃を受けておらず、演技をしているだけです。

 読者はこの実験を一見して、そもそも正気の人間なら最初の電撃すら加えるはずがないのではと不思議に思うかもしれない。みんないやだと言って実験室を立ち去るのでは? でも実際には、だれ一人そんなことはしない。被験者は実験者の手伝いにきているので、みんな最初はこの手順にはおとなしく従おうとする。別にこれは特に驚くべきことでもない。電撃を受ける側の人物も、当初は多少の懸念を示しつつも協力的に見えるからだ。でも驚かされるのは、普通の個人がとんでもない段階まで実験者の指示に従い続けるということだ。実のところ、実験の結果は驚くべきものであると同時に、がっかりさせられるものでもある。多くの被験者は緊張を感じるし、実験者に抗議する人も多いが、相当部分は発生器の最高レベルまで電撃を与え続けるのだ。

(第1章)

ということです。

 大半の被験者は実験を放棄するどころか、(抗議はしつつも)実験者の指示に従い、学習者に最大電力を浴びせる段階まで実験を続けています。なかなか衝撃的ですよね。なぜなのか、ということが本書では分析されていくのですが、この基本実験をベースとして、条件を変えながら派生実験も行われています。


 基本実験においては「実験者」が「権威」という立場ですが、これを「ただの人」に変えたらどうなのか。この実験を行っているのが「イェール大学」という社会に名の通った大学という意味では「権威」になるけれども、これをイェール大学と繋がりが見えないように単なるオフィスビルの一室で行われたらどうなのか。本書はこういう派生実験を読んでこそだと思いました。

 例に出した、実験する場所を変更するという派生実験は、

 これまで得られた結果を解釈するにあたり、背景的権威の問題を検討する必要があった。それ以上に、これは人間の服従に関するあらゆる理論に大きく関わってくる問題だ。日々の生活で他人の要求に従うにあたり、それが特定の機関や場所とどれほど結びついているかを考えてほしい。床屋では、要求されればカミソリを持った人物に自分の首をさらすが、靴屋ではそんなことはしない。靴屋では、店員が求めればすぐに靴下姿になるけれど、銀行ではそんな要求には応じないだろう。高名な大学の研究室では、人はよそでなら従わないような指示にも服従するかもしれない。服従と、その人が行動している文脈の意識との関係は、常に考慮する必要がある。

(第5章)

という考えの基に行われたようです。
 確かに、そういう名の通った大学の研究室で教授が指示を出していれば、それなりに意味のある実験なんだろうと捉え、(抗議はしつつも)従わざるを得ないような雰囲気にはなるかもしれませんが、何だかよく分からない場所で立場もよく分からない人から指示されてもなかなか従おうとは思わない気がしますね。まぁ、「これをやらないとお前の命が……」なんて脅されたらそんなの関係なしに従ってしまいそうですが……。


 本書の内容は、あくまで「実験」なので従わなかったとしても罰はありません。それなのに服従してしまう被験者が多かったということは、罰があることが前提となる状況ではその割合もまた一段と上がるんじゃないかと思います。むしろ、世の中では「権威」に対して従わないとなると、罰が待っていることの方が多いんじゃないでしょうかね。

 もちろん健全な指示に対して従うのは問題ないと思います。会社で考えてみても、上司の指示に的確に従わないと業務が回りませんからね。問題は不健全な指示で、例えばデータの改竄だとかです。上司からデータの改竄を指示された場合、それに従わないとパワハラの対象になってしまったり、理不尽な評価を受けて減給されたりと罰を受けることが頭を過ります。

 世の中でデータ改竄だとかの事件が起こるとネット上では、「何で断らないんだ!」みたいなコメントで盛り上がりますが、果たしてその場にいたら毅然と断れますか?って話です。いや、そりゃ当然断らなくてはいけない案件だし、事件に加担した方が悪いに決まっています。その前提は覆すつもりもないし、擁護するつもりもありません。ただ、本当に断れますか……?


 まぁ、本書には色々と反論異論があるようなのでそれら全てを追ってはいませんが、このアイヒマン実験が全てではないでしょう。実験が行われていた当時の社会状況もあるので、この結果がそのまま今の社会に当てはまるわけでもありません。しかし、1つの理論としては十分に価値のあるものだと本書を読んで思いました。


 「訳者あとがき」にもこうあります。

悪は人間離れした怪物が生むものではなく、むしろ凡庸さ/陳腐さの産物なのだ。したり顔でナチスの残虐行為を糾弾する人も、その場におかれたら平気でガス室のボタンを押していただろう。この説はものすごい非難を浴びたが、ミルグラムの実験はこれがかなり妥当性の高い説だと言うことを如実に示してしまった。人々や社会が高い道徳観を持っているということは、ナチスのような事態がわれわれの社会で発生しない保証にはならない。

(訳者あとがき)

 ちなみに「訳者あとがき」の中で、訳者自らが数ページを割いてこの実験及び理論を批判しています。これがなかなか興味深く、本書を読む際には是非ともこちらも読んでいただければと思います。


 今回はこんな感じです。
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