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日常生活の雑感を書き出しています。備忘録的役割。

2020年の巨人について語る〜キャンプ以降のちょっと気になった情報をピックアップしてみる〜


 しょうがないですよね。今後の感染拡大状況にもよると思いますが、開幕も予定通り迎えられるのか…?というところでしょう。オリンピックがなければ、おそらく開幕を少し延期することも考えられたと思うし、というかオリンピックがあるから開幕を少し早めることになっているわけだし、まぁ、なんとも巡り合わせの悪い年となってしまいました。
 いちファンとしては、選手に感染が広がらないように願いつつ、今後の動向を見守るしかできないですね。


 さてさて、無観客とはいえオープン戦も本格化してくることなので、ここまでで気になった情報を取り上げてみます。タイトルの通りです。敬称略です。

坂本


 やはり一番気になっているのはこれですね。つい最近の情報です。
 昨年は神がかり的な活躍をしていて、本当に何度もチームを救っていました。原監督の第二次政権の時は、「阿部のチーム」と言われるくらい当時の阿部が活躍しており、それを目の当たりにしてきた坂本が、今では当時の阿部のような存在になっているのはなんとも感慨深いものがあります(なぜか親目線的な感じですが、まぁ、同い年なんですけどね。)。まさに今は「坂本のチーム」でしょう。

 とはいえ昨年は、2番打者、守備の要のショート、そして主将としてチームを引っ張り、さらには侍ジャパンと何役も背負っていたわけですから、色々と疲れが出てきている感じですね。
 1〜2月には2回もインフルエンザにかかってしまい、そしてここに来て背中の違和感……。本人は軽症とのことで次のオープン戦には出場意欲を見せているけども、少しは休んでもいいんじゃないかなーとは思ってしまいます。この時期にアピールし続けなければいけない若手とは立場が違うわけですし。

 いずれにしてもこの違和感が昨年の菅野みたいに長引かないことを祈る次第です。

メルセデス


 これ以降の情報がないから現状どの程度の回復具合なのかが分かりません。
 日本シリーズでは唯一彼だけと言ってもいいくらいに完璧な投球をしていたし、コントロールもよく大崩れしない計算の立つ投手なだけに長期離脱となるとなかなか厳しいですね。ただでさえ、キャンプ中の左腕の先発候補が軒並み微妙な結果だったようなので。
 最近になってやっと田口が若干盛り返したようですが、高橋優はスタミナ不足が露呈したみたいです。なんというか、ちょっと低いレベルでの一進一退になっていますね。だからこそメルセデスには残ってほしかったのですが、早期復帰を願います。

モタ


 連日記事になるくらい注目されていました。阿部2軍監督にみっちり指導を受けていたし、実戦でもしっかりと結果を残していたし、今キャンプで一番注目されていたのではないでしょうか。

 モタの場合は支配下登録すらされていない「育成選手」なので、坂本や丸、同じ外国人助っ人のパーラとは立場が異なり、とにかくアピール、そして結果を出し続けなければいけません。そんな状況の中で、こうして結果を残せたことによって支配下登録への道がグッと近付いてきていると思います。

 おそらくこのままならば開幕前までに支配下登録されると思いますが、もし先述したメルセデスが開幕に間に合わないとなると、開幕一軍、さらには開幕スタメンなんてこともあるかもしれません。

中島


 昨年あまりにも不甲斐なさすぎる結果で叩かれまくっていた中島が、今キャンプでは盛り返しています。
 そもそも昨年の獲得の時点で賛否の「否」が多く聞こえてきましたが、私自身は右の代打候補としては実績十分だし、場合によってはスタメン起用もできるから補強としては間違っていなかったんじゃないかなーとは思っていました。まぁ、蓋を開けてみたらヒドかったのは確かですけどね。

 しかし、先日のオープン戦のホームランを見る限りは結構順調に来ているのでは?という感じでした。もともとしっかりとミートが出来て、バットコントロールもある選手だと思うので、その辺の感覚が戻っていれば成績を残せる選手だと思いますし、今後の調子次第では開幕スタメンも有り得るでしょう。

吉川尚輝


 仁志以降、長年悩まされている二塁手レギュラーの不在。それに終止符を打てる存在のはずなんだけど、結局怪我に悩まされてしまう吉川尚がやはりというかさすがというか、昨年の怪我のブランクがあっても頭一つ抜けて結果を残しているようですね。このまま怪我なく1年間を過ごせるといいのだが……。

 一方で、若林・山本・増田大あたりも、ファンなのかアンチなのかよく分からない輩に「どんぐりーズ」なんて揶揄されていますが、今キャンプではそれなりに結果を出しているようです。まぁ、あれだけ元木ヘッドコーチが発破をかけていましたし、彼らもいつまでも「1.5軍選手」なんて言われていい年齢ではありませんからね。

 例えばですけど、全員打率.300前後でのレギュラー争いなんて行われるといいなぁと思っています。

亀井


 いやー、さすが亀さん。今年もお願いします。

 私はとにかく亀さんが好きで、近年の活躍は非常に嬉しい限りなんですが、その一方で、いつまでも亀さんがレギュラーで出続けなければいけない選手層に憂いも感じています。

 今年は阿部が引退したということで、ただでさえ左の代打が手薄になるので、ここぞの場面で亀さんを代打起用できたら相手にとって脅威なんだけどなぁ……とは思ってはいるんですが、でもやっぱり毎日スタメンで亀さんの雄姿を見届けたいという思いもあるわけですよ。複雑な気持ちですね、はい。


***


なんか、巨人のこととなると次から次へと書きたいことが溢れ出て来てつい長くなってしまいます。


 今回はこんな感じです。


【感想】『しずかな日々』

読了:椰月美智子『しずかな日々』講談社文庫、2010年。

 季節外れの、夏休みが舞台の小説を読みました。
 客観的に見ると「主人公のある夏休みの思い出」という程度の話なのですが、主人公の枝田光輝(えだみつき)からすると、それはもう変化の多い、人生の転換期とも言える夏休みでした。ちなみに、物語は大人になった光輝の視点で過去を振り返るように淡々と語られています。

 それまで学校ではいつもひとり、家でお母さんと会話をする程度(お父さんは早いうちに交通事故で亡くなっています。)の生活だったのですが、5年生になってすぐに「押野」が声を掛けてくれてから光輝の生活が一気に「激変」します。

 母さんとの二人暮らしというのは、きっと、そうではない人たちの想像どおりのもので、そのイメージは、ぼくにいろんなことを教えてくれた。良いことも悪いことも含めてだ。
 だから、押野という、うしろの席の(自己紹介のときにぼくの背中をつついていたやつだ)同級生が帰り際、ぼくを野球に誘ってくれたことは驚きだった。クラスメイトからそういう誘いを受けたことなんて、それまで一度もなかったのだから。
 ぼくには、いつでももの悲しいようなイメージがつきまとっていたと思うし、実際ぼくはそのとおりなんだし、また、そうしなければいけないんだ、と子どもながらに感じてもいた。自分が発している雰囲気を、クラスメイトは敏感に感じ取って、ぼくに遠慮していたのかもしれない。


 押野は光輝を野球に誘い、近所の空き地に連れ出してくれます。そこには周辺の小学生が約束することもなく好き勝手に集まってくるのですが、そこでは上級生下級生の垣根を越えて遊んでおり、初めて参加した光輝のことも当然のように受け入れてくれました。

 はじめて参加したぼくを、そこにいたみんなは何事もなかったように受け入れた。それは、幽霊みたいに存在感のないぼくが眼中になかったという意味ではなくて、昔からの顔なじみのようにあっさりと自然に受け入れてくれたのだった。極度の人見知りをするぼくも、なぜかあまり緊張せずにふわふわとなじめた。


 読者側にはたったこれだけのことかもしれませんが、生活の中で近い存在がお母さんしかいなかった光輝にとっては、押野ただ1人だけでも一気に世界が広がったことだと思います。
 とりわけ子供時代って「経験」そのものが少なく狭いので、自分が経験したことのない経験をしている同級生に対して憧れだったり、妬みだったりと様々な感情を抱きやすいですよね。小学生の頃、夏休みに毎回海外旅行をしている同級生がいましたが、当時は子供心に「すげーなー、いいなー!」なんて羨望のまなざしを向けていた気がします。

 その後になんやかんやあってお母さんのお父さん、つまり「おじいさん」の家で光輝は暮らすことになります。お母さんは仕事の関係で引っ越します。本当はこの辺も触れておいた方がいい気もするのだけれど、まぁ、割愛します。


 さて、おじいさんの家に引っ越してからがこの物語のメインとなります。それ以降はゲームの「ぼくのなつやすみ」のような感じで夏休みが進んでいきます。グッピーの観察日記をつけたり、学校のプールに行ったり、押野が泊まりに来たり……。

 三人で──ぼくと押野は麦茶、おじいさんはお酒で──飲み物を飲み、漬物をつまむ。なんだかそれだけのことなんだけど、ぼくたちはその時間をとても有意義に感じた。なんにもしゃべらなくても、ただここでこうしているだけでよかった。濃密で、胸が少しだけきゅんとしてしまうような時間だった。それぞれが、自分だけの世界をたのしんで、でもそれは、ここにいる三人でなければ見つけられない世界だった。


 いわゆる「何気ない日常」ではあるけど、そこにこそ有意義な時間があることを教えてくれます。この辺の表現も含めて、この物語は、私の人生の教科書的な存在である『クマのプーさん』(原作の方です。)に通ずる部分がありました。プーさんの「なにもしないをする」という行動原理が非常に好きなのですが、おそらくこういうことを言うのでしょう。

 別に大きなイベントごとだけが「有意義な時間」になるわけではなく、本を片手にコーヒーを飲んでいる時間だったり、モンハンで素材が出なくて同じクエストを回している時間だったり、料理をしている時間だったり、そういう時間こそもっと「有意義」と感じられる心の余裕のようなものは常に持っていたいですね。

 最後はちょっとこじつけのようになってしまいましたが、読んでよかったなぁと思える作品でした。文体は異なるけど、こういう淡々とした日常を切り取りながら物語を進めていく様子は、私の好きな瀬尾まいこ氏と似ていることもあって非常に読みやすく、作品に入り込みやすかったです。

 まぁ、読んだことある方はご存知だと思いますが、お母さんの行動やお母さんに対する光輝の心情なんかを考えるともうちょい入り組んだ内容ではあるのですが、それらはぜひご一読いただければと思います。


 今回はこんな感じです。


【感想】『三途の川で落しもの』

読了:西條奈加『三途の川で落しもの』幻冬舎文庫、2016年。


 久し振りに小説を読みました。
 「三途の川」というと、「「あの世」へ行くために渡る川」くらいのイメージしかなく、同様に「賽の河原」なんかも子供が石を積んでいて鬼がそれを壊してやり直させるイメージ図が浮かぶ程度です。そのせいか、全体的に鬱蒼とした雰囲気を思い描いてしまうのですが、志田叶人(以下、叶人)という「子供」を主人公に据え、彼が奪衣婆を「ダ・ツ・エヴァ」と西洋風なキャラ付けをしたり、懸衣翁を「県営王」と県知事みたいなキャラ付けをしたりすることで、どこかコミカルな雰囲気を漂わせています。まぁ、表紙の絵からして暗い雰囲気の物語だとは思いませんでしたけど。


 物語は、叶人がある出来事がきっかけで生死を彷徨っている間に魂だけが抜け出して三途の川に迷い込むということから始まります。ちなみに先ほど紹介した「ダ・ツ・エヴァ」などは、その魂が「だつえば」に抱いているイメージで容姿が変わるようで、彼の中ではそんなイメージだったそうです。一応「金髪碧眼の美女」や「ファンタジー系のゲームに出てくるキャラクター」と表現されていて、なんとなーく私は「無双OROCHI」に出てくる妲己みたいな感じを思い浮かべました。なお、死者によっては恐ろしい婆さんの容姿をしていたようです。

 叶人はまだ完全な死者ではないということで現世に戻るように諭されますが、それを拒み(その理由がこの物語の肝です。)、渡し守である十蔵と虎之助の手伝いをすることになります。
 そこまでが物語の導入部分で、それ以降は短編にはなっているのですが、渡し守の仕事紹介的な話、十蔵の過去に繋がる話、虎之助の過去に繋がる話、そして叶人自身の話と、いわば定番な流れで構成されています。

 この十蔵と虎之助は、詳細は省きますが、要は輪廻の道から外れた魂で、次の生を受けることができないために三途の川で渡し守をやっているのですが、性格が正反対でこれがまた物語を柔らかい雰囲気にする一因を担っています。十蔵は律儀な武士、虎之助は喧嘩っ早くて口の悪いあらくれみたいな人物で、でもそれぞれ輪廻の道から外れてしまった過去というか因果を抱えていて、その辺で物語に強弱がついているようにも思えます。


 ところで、西条氏の作品を目にするのは初めてで、ご本人の経歴等も一切知らなかったので本作を読み終えた後に調べてみたところ、時代小説を書かれているということを知りました。確かにこの作品の特徴としては、「三途の川」と「現世」という2つの世界が舞台になっており、「現世」は叶人が生きていた現代社会、そこに十蔵と虎之助という最後の生が「江戸時代」という人物がいて、現在と過去が混在しているように感じる部分です。

 渡し守の仕事として「現世」に下りることがある3人ですが、十蔵と虎之助は「現世」のモノを江戸時代のモノと比較したり、例えたりしている場面が結構あります。

 渋谷が近づくにつれ、人口密度が高くなる。現代っ子の叶人ですらも、渋谷の人込みにはげんなりする。江戸時代生まれには耐えられないように思えたが、意外にも人の多さにはふたりは慣れていた。
「たいした混みようだな。こりゃあ、両国広小路にも勝るとも劣らねえ」
 江戸の人口は、叶人が考えていたよりも、ずっと多いようだった。ただ、渋谷も代々木も六本木も、さっきふたりが言ったとおりのひなびた村で、両国広小路という場所が、もっとも繁華な通りだったという。

 この後、2人と叶人の噛み合わない会話が続くのですが、そういう場面もやはり物語全体をコミカルで柔らかい雰囲気にしているんだと思います。クスッと笑えるような感じです。

 「三途の川」が舞台になっている以上、「死」というものを取り扱わざるを得ない展開でしたが、ここまで触れてきたような要素を散りばめることで、物語全体が柔らかい雰囲気を保っている作品でした。ただ、結末部分は若干ご都合主義のように感じていまいましたかね。私としてはそのままラーメン屋に行かずに終わった方がよかったかなー、と。


 今回はこんな感じです。

平日の朝のルーティン的なものの話


 先日、野村克也氏が亡くなられ、追悼番組を見ていると「あぁ…まだまだボヤキを聞いていたかったなぁ…」とじわじわと実感が湧いてきています。
 私は監督時代しか知らないのですが、その時代の野球を見て育ったし、監督をお辞めになった後もネットニュースやスポーツ番組でのコメントなどを楽しみにしていました。それらがもう見られないと思うと本当に寂しい限りですが、あちらの世界でも野球を続け、ボヤキ続けるんだろうなぁと思います。心からご冥福をお祈りします。
 

 さて、2月ももう半分が過ぎて、さらに子供が生まれてからもう1年も経つんだなぁとなんか年々と時が流れるのを早く感じてしまっています。
 この1年で何か人間的に得られたかというと結構答えに窮してしまうのですが、かと言って変化や刺激がありすぎるのもそれはそれで個人的には好まないので、淡々と日々が過ぎていくのも嫌いではありません。でも、この1年は子供のおかげでおそらくここ最近では一番劇的な1年だったかなーとは思います。

 淡々とした日々でも、変化の多い日々でも、どのみち毎日繰り返さざるを得ない行動は出来る限りルーティン化したい人間なのですけれども、特に平日の朝はルーティンみたいなものが確立されておりまして、大まかに分けると自宅と職場でそれぞれあります。


 自宅では、起床→朝食→20分くらいの二度寝→準備して出る、という流れを作っています。まぁ、出る間際に腹を下してトイレに籠るとか、その流れが崩れることもあるので「絶対」と言うよりは「極力」その流れを守りたいって感じです。
 ここで重要視しているのが「二度寝」なんですけど、そもそも最初から20分遅く起きればいいじゃんって思われるかもしれませんが、なんというか言葉に形容し難い感覚があってできることなら抜きたくないんですよね。あの「二度寝」をしたときの感覚、一体何なんでしょうか。
 幸いなことにこの流れが習慣付いているおかげで、今のところ二度寝から寝過ごして仕事に遅刻したということもないので、今後も続けていくと思います。


 そして、職場でのルーティン的なものとしては、「始業の約30分前に着く」というもので、とは言っても着いてから決まった何かをするというものはないのですが、私にはこの30分という時間が結構必要だなーと思っています。
 しかし、最初からそうしていたわけではなく、元々は5〜10分前に着くような時間に通勤していたのですが、この時間だと駅から職場に向かう道が、ただでさえちょっと狭めな道なのに職場へ向かう人達で多くなって余計に狭くなるという状況が嫌で、5分、さらに5分と繰り上げていったらいつの間にか30分前になったという感じです。しかも、この時間の道ならほとんど知り合いにも会わないので気が楽です。

 で、この30分をどう過ごしているかというと、まぁ、99%はスマホをいじっていて、パズドラをやっていることもあれば電子書籍を読んでいることもあり、比較的有意義に過ごせているんじゃないかなーとは思っています。残りの1%は腹を下してトイレに籠っています。
 ちなみに、余程仕事が溜まっていない限りはこの時間に仕事を一切しませんし、幸い私の所属する部署の方々も皆さん同じように過ごしているので有り難い限りです。


 おそらく人には何かしらこういうルーティン化された行動があると思うのですが、生活する上では結構重要だと思っています。特に毎日毎日繰り返さないといけない行動なんかはルーティン化してしまって、行動中に「考える余地」をなくしてしまいたいんですよね。ただまぁ、「ルーティン化された行動」そのものを定期的に考え直すことは必要だと思うから、必ずしもルーティン化すれば全てオッケーってわけではないんですけど。


 今回はこんな感じです。

好きなアニメについてゆるーく語りますpart.4

好きなアニメについてゆるーく語りますpart.1 - kmpen148のいろいろ
好きなアニメについてゆるーく語りますpart.2 - kmpen148のいろいろ
好きなアニメについてゆるーく語りますpart.3 - kmpen148のいろいろ

 勝手なアニメ語りもとうとう4回目を迎えてしまいましたが、これで一旦は完結です。

※(  )内は放送開始年月です。

とらドラ!

(2008年10月)

 まぁ、おそらく散々語り尽くされた名作だと思いますし、それ以上に語るほどの熱量は持ち合わせていませんが、それでもやはり「好きなアニメ」として挙げたい作品ですね。
 とは言え、実際はリアルタイムで見ておらず、大学4年の頃に過去アニメを見まくっていた時期に見たという感じです。


 この作品の好きな部分は、もうね、たった1つの台詞に凝縮されているのですが、それは櫛枝実乃梨(通称:みのりん)がクライマックスに逢坂大河に放った言葉です。

ふっざけんな!
あたしの幸せは、あたしがこの手でこの手だけで掴み取るんだ
あたしには何が幸せか、あたし以外の誰にも決めさせねぇ!

(アニメ23話の台詞を引用したので、原作とは表現が少し異なるかもしれません。)

 私は最初から最後まで櫛枝実乃梨が好きで、とにかく彼女の行動や言動を中心にこの作品を見ていました。ただ、あくまでヒロインは大河だからみのりんの恋が叶うことはないだろうなぁ……潔く、でも、密かにその恋を終わらせるんだろうなぁ……なんて思いながら見ていたので、この台詞が放たれた場面は本当に衝撃的でした。

 そういえば以前、So-netブログでも「とらドラ」については記事にしていました。


氷菓

(2012年4月)

 ちょうど去年、あぁ、あの京都アニメーション第1スタジオでの放火事件があった頃です、偶々のタイミングだと思うのですが、Huluで京都アニメーション作品がいくつか配信された際に、「氷菓」も一緒にあがっていたので久々に見返しました。

 何度目か分かりませんが、何度見てもいいですね。放送されていた当時は、地上波で2回、BSで1回となぜか1週間に3回放送されるというサイクルだったので全てリアルタイムで見ていたくらいです。

 アニメから入った口だったので、すぐに原作も読んでみたのですが、アニメならではの表現も盛り込まれていて本当に素晴らしい作品だったと思います。
 特に、『遠まわりする雛』の「大罪を犯す」は秀逸でした。千反田えるのクラスの数学担当教師が、自らの勘違いで生徒を叱ってしまい、それに対してえるが異議を唱えるという話なのですが、古典部の4人が部室で「なぜそんな勘違いをしたのか」という理由を考えている場面、予め置かれていたクッキーが見事に「小道具」的な役割を果たしていました。これは確かアニメ版のみの追加要素だったと記憶しているのですが、こういう細かい演出には感激した覚えがあります。


 ところでこの作品の数ある魅力の中で特に好きなのが、折木奉太郎福部里志の関係性です。
 福部里志はモットー的なものが「データベースは結論を出せない」なので幅広い知識を備えていますが、それらを基に結論を出そうとはせず、むしろその役目は折木奉太郎の方で、必要な情報については福部里志を中心に聞き出したり、調べてもらったりして、集まった情報を基に結論を出しています。

 ちなみにこの2人のうち、私は福部里志寄りの人間かなーと思っています。(福部里志が意識的に結論を出さないのかどうかはひとまず置いといて)私自身も結論を出すのが苦手なんですよね、でも、知識欲は多分ある方で、結構色々と調べてしまいます。まぁ、それを「知識」としてストックできているかはまた別の話なので、なり損ないのデータベースではありますが。


 最後に、原作はまだまだ続くので2期もやってほしいなーなんて思ってはいるのですが、昨年あんなことがあり会社としてもまだまだ復興途中だと思いますので、気長に待ちたいと思います。
 いや、そもそもアニメとしては元からあれで完結予定だったのか、第2期を制作する予定があったのか……私、気になります!


***


 さて、4回にも及んでしまった、誰得な好きなアニメ語りだったのですが、まぁ、一番得をしたのは私なわけで、これを書いたことでここで取り上げた各作品の好きな場面や印象深かった場面を思い出して、「あぁ、やっぱりよかったよなぁ」なんて感慨に浸っておりました。
 ただ、こうして列挙してみると気付いたこともありまして、これらの中で一番最近の作品でも2013年のもので、この6〜7年の間にもそれなりにアニメは見ていたはずなんですけどどうも印象に残っているものが少ないんですよね…。

 アニメそのものは今でも好きだし、今後も新作アニメはちょこちょこと追っていきたいとは思っているので、「お、これは」と思う作品に出合えたらまたこうして記事にするかもしれません。


 今回はこんな感じです。

京都への旅はまだまだ続けたいです

 まぁ、京都に限らず観光地はこのコロナウイルスの影響で観光客減というところでしょう。ただ、こんなにも減っているのなら京都に行きたいなぁとか思うんですね。
 というのも、大学4年の頃から9年だったか10年だったか連続で年に一度、旅行に行っていました。主に1人でですが、友人と行ったこともあるし、奥様と行って前撮りしてきたこともありました。昨年はさすがに子供が生まれて間もないし、かといって1人で行くわけにもいかないのでとうとう連続記録は途切れましたが。

 よくもまぁ毎年行くよね、って思われるかもしれませんが、単純に寺社仏閣の雰囲気が好きなのと、スイーツ巡り(特に抹茶系)をしています。

 と、今でこそはそう言うものの、そもそもの話、最初に京都に行こうと思ったのが劇場版名探偵コナンの「迷宮の十字路」の聖地巡礼をしたかったって理由でした。

 1年目は市内の関係各所は全部回ることができたけど鞍馬山だけ離れすぎていて行けなかったので、2年目に行ってとりあえず聖地巡礼達成!とか思っていたらそのまま京都旅行にハマってしまって、3年目以降はそういうの関係なく行きたい寺社仏閣を巡るという感じです。一時期はカフェ巡りにもハマっていたので、事前に美味しそうなお店を探しておいて、寺社仏閣よりもカフェを巡ることがメインなんてこともありましたね。


 冒頭の記事を見て、見切り発車的に書き始めてしまったのでこのあとの展開を考えいないのですが、まぁ、あれですね、好きな寺社仏閣とかカフェをいくつか書いておきます。

寺社仏閣について

 本当にただただ雰囲気が好きというだけなので、予めここに行こうかなーって計画を立てはしますが、事前学習なんてしないし、現地で説明を食い入るように読むようなこともしません。「はい、来ました、あー、雰囲気いいわー」って満足する感じです。

 そんな中でも別格なのは、インクライン南禅寺です。インクラインは昔、物資の運搬に使われていた線路の跡地なのですが、とにかく人がいません。市内がどんなに混んでいても、ここではほんの数人見かける程度です。そもそも並行して歩道が通っているので、わざわざ線路跡地を歩こうって物好きもあまりいないのかもしれませんね。ここは散歩するのに本当にいいですよ。

 そしてここを抜けた先には、南禅寺という大きなお寺があります。ここは大きいが故に、人が多くても全然混んでいると感じず、物静かなお寺です。


 三十三間堂なんかも好きですね。ここは1,001体の千手観音像が並んでおりますが、他の博物館への貸出等もあり全て揃ったのはつい最近だとか。
 ここに初めて入ったときは圧倒されました。こんなに数多くの仏像が並んでいるのを見るのなんて初めてだったし、とにかく威圧感がすごかったです。ちなみにここは写真撮影禁止なので目に焼き付けるしかありません。


カフェについて

 京都と言えばやはり抹茶なのですが、 まぁ、どこ行ってもたいてい抹茶系スイーツは何かしらがあると思います。

 その中でも特に好きなのは中村藤吉です。本店は宇治にあり一度だけ行ったことありますが、それ以降は京都駅内にある支店で済ませちゃっています。帰りの新幹線を待っている間に寄ることにしていますが、1時間以上は待ちます。まぁ、ただ、本店限定の竹の器に入った生茶ゼリィはもう一度食べたいですね。


 イノダコーヒなんかもいいですね。「コーヒー」ではなくて「コーヒ」です。深夜バスで行っていたときはモーニングを利用していましたが、なかなかオッシャレーなメニューです。大通りから路地に入ったところにあるので閑散としているし、店内もレトロな雰囲気で落ち着いているので朝のひとときをゆっくりと過ごせるお店だと思います。


 ちょっと中心部から外れますが、嵐山にあるeXカフェ(イクスカフェ)もおすすめしたいお店ではあります。
 AKB48横山由依さんの「京都いろどり日記」で取り上げられていたのを見て知ったのですが、そこで紹介されていた「京黒ロール」が非常に美味しそうだったので実際に行って食べてみました。味はもちろんのこと、盛り付けも綺麗で、大袈裟かもしれませんがアート作品のようでした。
 二度目に行ったときは、自分で焼いて食べられる「ほくほくお団子セット」を堪能しました。自席で小鉢みたいのを使って焼くのですが、火気対策的なものは大丈夫なのかなーとか余計なことを考えてしまいました。


***


 まだまだ行けていない寺社仏閣やお店がたくさんあるので、今後も京都への旅は続けたいですね。


 勢いに任せて書いてしまいましたが、今回はこんな感じです。

【感想】『教養としての「世界史」の読み方』

読了:本村凌二『教養としての「世界史」の読み方」PHP研究所、2016年。

 ローマ史研究家が、敢えてそれ以外の時代や地域も含めて教養としての「世界史」を記した書籍です。
 「敢えて」がポイントで、著者の動機として、歴史家が書く「世界史」は専門的過ぎて面白くないと思われがちで、そして自分の専門分野以外には手を出したがらないという状況に一石を投じてみようということだそうです。
 とは言っても、そこはやはりローマ史専門家なのでしょう、随所にローマを軸に比較している部分があるのですが、それを差し引いても、非常に分かりやすく書かれていました。


 私は高校時代、2年生から世界史が必修だったのですが、運良く担当教員に恵まれたおかげで楽しく学ぶことができ、好きな教科になりました。まぁ、どちらかと言えば受験を意識した勉強をしてはいましたが、それでも今まで知らなかった歴史を知ることが楽しくて楽しくてしょうがないという思いで、年号なんかは語呂合わせを自作していたくらいです。
 余談ですが、参考書に書かれている語呂合わせは一般ウケする言葉が選ばれているので、インパクトに欠けるものやむしろ覚えにくいものがあって、無理矢理それらを覚えるくらいだったら、自分の趣味に引き込んで自作した方が断然覚えやすかったですね。

 そういう勉強をしていたので確かに受験では力を発揮できましたが、それ以降はやっぱりどんどん忘れていくわけで、つい最近センター試験の世界史を見てみたのですが全然分かりませんでした。単語は分かるんだけど、それがいつの時代だったか、誰が行った政策だったかなどはキレイサッパリというくらい。だから、本書を読んでいると「あー、あったあった!」と遥か彼方の記憶が蘇ってきてそれはそれで楽しかったです。
 

 歴史を学ぶとき、これまではまず日本史から始めるという人がほとんどでした。事実、私の周りにも日本史は好きだけれど、世界史は今ひとつ、という人がたくさんいます。
 世界史が敬遠される理由は、いくつかあります。
 中でも最も多いのが、五千年以上という年月の長さと文字通り世界中という範囲の広さです。加えて登場する人名や地名がカタカナばかりで覚えづらい。漢字ならいいかというと、中国史の地名・人名はカタカナ以上に読みにくかったりします。

 これは私も経験があって、周りからよく「カタカナばかりで分かんない(特に人名)」なんて言葉を聞いていました。これを聞く度に、「口に出していれば覚えられるんだから、漢字ばかりの日本史より簡単じゃないか…?」って思っていたんですよ。当然、当時は「試験勉強として」の意味合いが強いのですが、覚えたい出来事や人物はとにかく念仏のようにブツブツ言っていたら大体は覚えられた気がします。その反面、漢字とセットで覚えなきゃいけない中国史なんかは苦戦していましたけど…。


 第7章の見出しにもなっていたけど、著者は歴史を全て「現代史」と捉えることが大切だとしています。私たちから見れば、古代ローマも中世ヨーロッパも、前漢後漢時代も「過去」のものですが、その視点だけで見ていると「現在」の常識の枠内だけで考えてしまいます。
 「現在」から見ると「常識外れ」の行動や出来事でも、当時の社会背景などを踏まえて考えると必然的に起こったことであったり、当時では「常識」として捉えられていたりする側面が見えてきます。

 われわれ歴史学者は、過去の人々の感性を理解しようとするため、その時代固有の感性なり、意識なりというものにできる限り還元していく努力をします。こうしたスタンスは学者としては間違っていないと思いますが、論文ならいざ知らず、そうしたスタンスのまま一般書を書いてしまうと、読んでもらえないものになってしまうという問題があります。
 専門家の書く歴史書が面白くないのは、このためです。


(中略)


 ローマ史にかぎりませんが、前近代を背景とする作家の物語を読むと、たとえば「占い」や「前兆」に人々が左右されている場面があったりします。そのとき、「占い」や「前兆」はあっさり触れただけで済まされており、古代人や中世人がどういう意識を持っていたかという点についてはほとんど語られていません。そのため今の感覚で読むと、前近代の人々が迷信に左右される未開な人々であったかのような印象しか残りません。でも、古い時代を扱う歴史研究者は、そこに生きていた人々にとって「占い」や「前兆」は彼らの活動に大きな影響をおよぼすほど迫真の力があったことに着目します。

 これは本書に取り上げられていたほんの一例です。他にも「ローマは大国になれたけど、ギリシアはなれなかった理由」だとか「独裁者が生まれる理由」だとか非常に興味深い内容が多かったです。

 学校で学ぶ歴史は「事実の羅列」と言われるのをよく耳にします。ある事象の裏事情というか発生要因みたいのを学ぶ場面は少ないと思います。逆に学校の授業でそれらを事細かにやっていたら何時間あっても足りないのですが……。

 もちろん本書に書かれていることが全てではないと思っているし、研究者によっては全く異なる見解を示していることもあると思います。その辺は読む側が総合的に判断しなくてはいけませんが、そういう様々な視点があるという部分も歴史の醍醐味だと思いますし、やっぱりこれからも世界史を積極的に学んでいきたいなーなんて思いました。


 今回はこんな感じです。